サモラ・マシェル


サモラ・マシェル

サモラ・マシェル(Samora Machel 1933年9月29日生)
 [モザンビーク共和国・大統領]


 1933年、ポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)ガザ州に住む農家に生まれた。1942年、ポルトガルの言語と文化で教えるカトリック宣教師の学校に入学した。4年生まで無事に学んだものの、マシェルは中等教育を修了することはできなかった。1954年、マシェルは首都ロレンソ・マルケス(現在のマプト)で看護の勉強を始めた。マシェルは看護助手養成所卒業の学歴で、彼によれば看護助手になりたくて養成所に入ったわけではなく、その当時モザンビークの植民地住民に許されていた最高の教育とは、小学校を終えたあと、白人の監督下で下働きの仕事をするための看護助手の養成所に行く事であり、愚民化政策であった。ロレンソ・マルケスにあるミゲル・ボンバルダ病院での正規の訓練を全て行うための資金が確保できなかったため、病院で補助者として働くことで夜学の学費を稼いでいた。病院での勤務は、マシェルが民族主義闘争に参加するために国を離れるまで続けられた。

 病院での勤務を続ける中で、マシェルは次第にマルクス主義に引きつけられるようになり、病院内で同じ仕事をしている黒人の看護士が白人の看護士より給与が低いという事実に抗議するなど、政治的な活動をはじめた。1962年、マシェルはモザンビーク解放戦線(FRELIMO)に加わり、翌1963年に国外で軍事訓練を受けた。1964年にモザンビークに戻ると、ゲリラ部隊を率いてモザンビーク北部でポルトガルに対する攻撃を行った。その後、1970年までにマシェルはFRELIMO軍の最高司令官になった。マシェルは最終的な目標として、人々に「武力闘争を革命に変える方法を理解」させることと、「新たな社会を作り上げるためには新たな精神状態を作り上げること」が必要不可欠であることを理解させることだと語っている。

 マシェルの掲げた目標はほどなく達成された。FRELIMOの部隊は植民地支配の力を弱めさせ、1974年にポルトガルでカーネーション革命が勃発すると、ポルトガル人はモザンビークから去っていった。マシェルの革命政府は政府を引き継ぐとともに、1975年6月25日の独立とともに初代大統領に就任した。大統領就任後、内政面ではポルトガル人の農園と財産の国有化を行い、またFRELIMO政権によって学校や診療所を建設するなど、マルクス主義の実践を速やかに導入した。さらにマシェルは、ローデシア(現在のジンバブエ)や南アフリカで少数派白人政権と戦っている革命家たちのために、モザンビークでの訓練および活動を認めた。しかし、FRELIMO政権が建設した学校や診療所は、反政府勢力のモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)による報復によって破壊され、鉄道や水力発電施設も妨害を受けた。モザンビークの経済はこうした略奪行為に苦しみ、ソビエト連邦を中心とした海外からの援助が始まった。こうした状況にもかかわらず、マシェルは在任中高い支持を得続けていた。1975〜1976年のレーニン平和賞も受賞している。

 1986年10月19日、ザンビアでの国際会議を終えて帰国途中のマシェルが乗ったツポレフTu-134がレボンボ山脈に墜落した。乗員乗客44人のうち、マシェルを含むモザンビーク政府の大臣、職員ら34人が死亡し、生存者は10人だった。モザンビークでは、この墜落事故に当時の南アフリカ政府が関与しているという疑いが広まったが、その証拠は何一つ見つからなかった。墜落事故の後、モザンビークと南アフリカの両国政府は、国際民間航空機関の関与により国際的な調査委員会を設置することで合意した。シカゴ条約によると、墜落の起こった場所である南アフリカ政府が調査を主導することになっている。しかし南アフリカ政府は、飛行機の所有者であるモザンビークと、製造者であるソ連に協力を強いた。結局、モザンビークとソ連は、同等の立場で参加する感触を得られなかったため、初期の段階で協力関係を解消した。

 南アフリカ政府は、マシェルの乗った飛行機の墜落を調査するために、裁判官のセシル・マーゴを代表とする調査委員会を設置した。委員会の調査は、ロター・ニースリング将軍が現場から回収されたブラックボックスの引渡しを妨害したため、数週間遅れた。マーゴ委員会は調査の終了にあたり、機体は飛行に耐えるもので整備もきちんとなされており、手抜きや第三者の関与を示す証拠は全く無かったと結論づけている。調査報告書の中で委員会は、以下のように述べている。
「事故の原因は、フライトクルーが降下進入の機器を手順通りに用いなかったことであり、さらに暗闇といくらかの雲の中で、最低限維持すべき高度を保たずに有視界飛行方式での降下を続けたことと、対地接近警報装置の警告を無視したことも付け加えられる。」
この事故に関するマーゴ報告書は、国際民間航空機関でも承認された。一方、ソ連側は、南アフリカによって自身の専門的知識や経験が傷つけられたと主張する反対意見を出した。その中では、南アフリカの保安部隊が共謀し、イスラエルの情報機関から提供された技術を用いて偽のナビゲーションビーコン信号に故意に交換されたという説を述べている。ソ連の報告書では、飛行機を丘に誘導した37度の右旋回に着目した。これは、乗務員が着陸に向けて地面と並行に飛行していると誤信して、地表接近の警告を読み誤ったというマーゴ報告書の調査結果を否定するものである。

 2006年2月10日のメール・アンド・ガーディアン電子版は、南アフリカ政府がマシェルの死について調査を再開する予定だと報じた。保安相のチャールズ・ンカクラは、議会内でリポーターに対して「我々は、この件を徹底的に調査することを確実にすることをモザンビークの人々に対して負っている。この件の扱いについては議論が進行中だ」と語っている。この調査には、南アフリカの全ての法執行機関がモザンビークの同機関と協力して関与するものと予想された。しかし、その後2年近くが経過しても調査から新たな事実は浮かび上がってきていない。

 マシェルの未亡人、グラサ・マシェルは、墜落が事故でないことを確信し、夫を殺めた人物を探し出すことに生涯を捧げた。1998年、グラサは当時南アフリカの大統領であったネルソン・マンデラと結婚した。同時にではないにせよ、異なる国のファーストレディになった珍しい例である。1999年1月19日、南アフリカのネルソン・マンデラと、マンデラの夫人となったグラサ、そしてモザンビークの大統領のジョアキン・アルベルト・シサノによって飛行機の墜落した場所に記念碑が建てられた。モザンビークの建築家によってデザインされた記念碑は、墜落で亡くなった人数と同じ35個の鋼管で構成され、南アフリカ政府が150万ランド(約30万ドル)を出している。なお、この墜落ではソ連の乗務員4人とマシェルのための2人のキューバ人医師、ザンビアとザイールの在モザンビーク大使の8人の外国人が亡くなっている。

 1986年10月19日死去(享年53)


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