渡辺省三


渡辺省三

渡辺省三(わたなべしょうぞう 1933年2月26日生)
 [プロ野球選手/スカウト]


 愛媛県出身。6歳のとき軍属として徴用された父とともに朝鮮に渡り、平壌工業高校へ入学。終戦後に帰国し、旧制西条中へ入学後に野球を始める。卒業後は倉敷レイヨン西条に入社し、軟式野球をやっていたが、1951年10月に大阪タイガースの入団テストを受け、合格する。2年目の1953年に制球力の良さを買われてキャンプに打撃投手として帯同し、紅白戦でエース・梶岡忠義の右手甲に死球を与えてしまう。オープン戦で梶岡の代役として投げたところ好結果を出し、一軍に昇格した。同年は4月5日の対名古屋ドラゴンズ戦で初登板し、19日の対読売ジャイアンツ戦で初勝利を挙げるなど、10勝11敗の成績を残す。以降は1958年まで6年連続で二桁勝利を挙げるなど、チームに欠かせない戦力となった。最盛期は1955年から1957年までの3年間で、特に1956年は22勝、防御率1.45で最優秀防御率のタイトルに輝いた。1958年には開幕投手を務めた。1965年限りで現役引退後は、二軍投手コーチ、一軍投手コーチ、スカウトとして活動した。特にスカウトとしては、新庄剛志・野田浩司・仲田幸司・遠山奬志・亀山努らを発掘した。

 1998年8月31日に神戸市中央区の路上で倒れ、死亡しているところを通行人が発見した。近くの雑居ビルから転落したものと見られ、屋上に争った形跡がないことなどから生田署は飛び降り自殺をした可能性が高いと判断した。
渡辺省三2

 ところが、落下地点がビルから約8メートルも離れた遠方だったこと、死亡する直前にATM(現金自動預け払い機)から引き出した現金85万円がなかったこと、遺書もなく自殺する動機が乏しかったことに疑問を持った遺族(長女)が、1999年7月に「誰かに殺された」として被疑者不詳のまま殺人罪で告訴した(1999年12月に不起訴処分)。2002年4月、長女は鹿砦社から「タイガースの闇〜ある名スカウト自殺の謎〜」を出版するが、2003年2月、同書及び自身運営のホームページ上に、父の死を他殺として、阪神球団関係者の名誉を毀損する内容を記載していたことで、阪神球団の末永正昭・笠間雄二に名誉毀損罪で神戸地検に刑事告訴される。2005年8月1日、長女は名誉毀損罪で在宅起訴され、2006年3月3日、神戸地方裁判所から懲役8ヶ月執行猶予4年の判決を言い渡された。

 1998年8月31日死去(享年65)





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