アルツロ・ガッティ


アルツロ・ガッティ

アルツロ・ガッティ(Arturo Gatti 1972年4月15日生)
 [カナダ・プロボクサー]


 両親ともにイタリア人であり、彼自身もイタリアで生まれたが、子供の頃にカナダに移住し、さらに10代の頃、アメリカのニュージャージー州へ引っ越した。アマチュア時代はカナダのナショナルチームにも選抜されたが、早い時期にプロ転向を目指し19歳で1991年6月10日にプロデビューした。1994年5月6日にはUSBA全米スーパーフェザー級王座を獲得。1995年12月15日にはIBF世界スーパーフェザー級王座を獲得。1997年10月4日、3度目の防衛戦でガブリエル・ルエラスと対戦し、5回TKO勝ちで3度目の防衛に成功した。この試合は1997年度のリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーおよびノックアウト・オブ・ザ・イヤーに選出された。その後、同王座を返上し階級を上げた。その後3戦続けて敗戦するが、1998年8月22日のイヴァン・ロビンソン戦は1998年度のリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された。

 ガッティの戦い方はまさに肉を切らせて骨を断つような攻撃で、相手に打たれたあとにノーガードで向かっていったりと観客を熱狂させる試合を見せることもあった。そのボクシングの原点である『殴り合い』を彷彿とさせるファイトスピリットを持っているため、アメリカ大陸など激しい攻防を好む傾向にある地域では戦績以上に高い人気を誇った。中でも、アイルランド人ボクサー、ミッキー・ウォードとの3戦はボクシング史上に残る試合とされている。ウォードもガッティと似たファイティングスピリットに溢れた選手だったため、ポイントなどを無視した激しい打ち合いになり、両者血まみれの顔で朦朧としながらも本能だけで打ち合うような試合となった。初戦は2002年5月18日で10回判定でウォードの勝利、リターンマッチは2002年11月23日で10回判定でガッティが勝利した。これらの試合はノンタイトルにもかかわらず、年間ベストマッチに挙げるファンが多数いたほどの名勝負となったため、2003年6月7日にラバーマッチが組まれることになった。3戦目も前2戦に劣らぬ打ち合いとなり、10回判定でガッティが勝利した。特筆すべきは3戦ともノンタイトル戦でありながら、この両者の3戦をベストマッチに選ぶファンが多かったという点である。特に第3戦などはこのノンタイトル戦がメインイベントの興行になり、チケットが入手困難になったという。また、この両者は3回の激闘を通じて友人になった。ウォードは引退後はガッティのトレーナー、スパーリング・パートナー役を買って出た。

 ガッティは2004年1月24日にジャンルーカ・ブランコと空位のWBC世界スーパーライト級王座を争い獲得した。同王座は2度防衛した後、2005年6月25日にフロイド・メイウェザー・ジュニアに敗れて失った。2006年1月28日、トーマス・ダンガードを11回TKOで破り、空位のIBA世界ウェルター級王座を獲得して復活をアピールした。そして7月22日にWBC世界ウェルター級王座を獲得すべくアルゼンチンのカルロス・バルドミールに挑むが、9回TKOで敗れ王座奪取に失敗。2007年、再起を目指すも初戦でアルフォンソ・ゴメスにKO負け。ついに現役引退を発表した。2009年4月、彼女への暴行罪で逮捕され、彼女への接近禁止命令と罰金を支払い保釈される。

 2009年7月11日、旅行先のブラジルのホテルの一室で首と後頭部から血を流して死んでいるところを発見された。妻や子供には全く危害が加えられておらず、妻が通報を迅速に行わなかったこと、後頭部の傷など不明瞭な点が多く、当初は現場の状況から事件性が疑われ、同月13日には妻が殺人容疑で逮捕されたが、30日には死因は自殺として釈放された。この後、遺族と関係者が死因を認めず、埋葬された遺体を掘り起こして再検視するなどの騒動もあった。2013年、国際ボクシング名誉の殿堂博物館に殿堂入りした。

 2009年7月11日死去(享年37)


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