マティアス・シンデラー


マティアス・シンデラー

マティアス・シンデラー(Matthias Sindelar 1903年2月10日生)
 [オーストリア・サッカー選手]


 ポジションはセンターフォワード。179cm・63kgという細身の体型と、相手ディフェンダーの間をいつの間にかすり抜けてゴールを決めるプレースタイルから、「紙の男」と呼ばれた。1930年代前半にヨーロッパ最強といわれ、ヴンダーチームと呼ばれたオーストリア代表の中核となった選手であり、現在も多くの人にオーストリアサッカー史上最高の選手と認められている。

 コズラウ出身。1918年、15歳の時に機械工見習として働きながらASVヘルタ・ウィーンのユースに入団した。若い頃から膝に持病を抱えており半月板を手術したため、いつも右膝にサポーターを巻いて試合に出ていた。このことも彼が肉体的接触を避けるプレースタイルを確立していった一因と見られる。1924年にはウィーンASへ移籍した。1926年に同チームがFKアウストリア・ウィーンとなってからも、中心選手として2回のミトローパ・カップ(UEFAチャンピオンズリーグの前身といわれるクラブチームによるカップ戦)優勝などに大きく貢献した。

 1926年には初めてオーストリア代表に選出され、中心選手となっていった。その後、当時の監督であったウーゴ・マイスルに敗戦の責任を取らされる形で代表に呼ばれなくなった時期があったものの、しばらくして復帰した。シンデラー復帰後のオーストリア代表は、1931年4月から1934年6月までの3年あまりで30試合して21勝6分3敗という結果を残した。1934年イタリアワールドカップにおいてもシンデラーを中心とするオーストリアは優勝候補の一角と見られていたが、当時ベニート・ムッソリーニ率いるファシズムが浸透していた開催国イタリアとの対戦になり、現在まで語られている「ムッソリーニによる主審買収事件」により0-1で敗れた。この事件では準決勝の主審であったスウェーデン出身のエクリンドが、前半18分にゴール前でボールをキャッチしたオーストリア代表のGKを、イタリアの選手4人がラグビーかのようにタックルし、ボールを持ったままのGKをそのままゴール内に押し込んだ行為を正式にイタリアの得点として認める。通常ならばノーゴールとなるだけではなく、イタリア代表選手に退場が言い渡されるはずであったが、エクリンド主審はファウルの判定すらしなかった。また、試合終了直前にはオーストリアの選手のセンターリングをエクリンド主審が自らヘディングでクリアするなど、オーストリアの得点チャンスを「積極的に」妨害した。しかしムッソリーニの影響力に逆らえなかったFIFAも黙認するしかなかった。シンデラー自身もイタリアのルイス・モンティ(もともとアルゼンチン人だったが、ワールドカップのためにムッソリーニがイタリアに帰化させた選手の一人)に徹底的にマークされ、ファウルまがいのタックルを受けてケガをするなど、この試合では活躍できなかった。続く3位決定戦のナチス・ドイツ代表戦ではケガのため出場できず、2-3で敗戦してワールドカップ4位という当時としては非常に残念な結果で大会を終えた。

 オーストリア代表は1938年のフランス大会においても予選を勝ち抜き、本戦進出が決まっていたが、オーストリアという国家そのものが1938年3月にナチス・ドイツに併合されて消滅したために参加不能となった。併合後、元オーストリア代表の中心選手たちは次々と統一ドイツ代表に参加したが、シンデラーは高齢やケガを理由に招聘を断り続けた。しかし、1938年4月に開催された「統一ドイツ」対「旧オーストリア」戦では、「旧オーストリア」代表のキャプテンとして参加した。ナチス関係者からの「『統一ドイツ』代表に勝たせるように」という指示を無視して2-0で勝利し、自身も1ゴールを上げるなど活躍した。シンデラーは、試合に出場する条件としてオーストリア代表のユニフォームをそれまでの紫色から国旗と同じ赤白に変更させたが、この配色は今でも使われている。

 1938年12月、対ヘルタBSC戦で1ゴールを上げたのが生涯最後の試合となった。翌1939年1月23日、アパートの自室でユダヤ人の恋人と共に死亡しているところを発見された。公式には欠陥のある煙突によって引き起こされた一酸化炭素中毒による事故死と発表されたが、身体中の一酸化炭素濃度は致死量に達しておらず不審な点が多い。これが多くの憶測を呼び、周囲の政治状況に絶望しての自殺説、さらには、警察の捜査資料が紛失していることなどから謀略説も囁かれた。ただし、2004年にオーストリア国内で明らかになったところでは、シンデラーは1938年にウィーン市内でカフェの経営を始めており、これは元々はユダヤ人であった彼が「アーリア人化」を受け入れた、つまり、ナチスへの協力を誓ったために可能になったのではないかと議論されている。

 1939年1月23日死去(享年35)


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