山田道美


山田道美

山田道美(やまだみちよし 1933年12月11日生)
 [将棋棋士]


 愛知県出身。金子金五郎九段門下。1960年初参加の順位戦B級1組で5勝7敗の成績でありながら降級するが、翌期すぐB級1組へ復帰。一年間の病気休場を余儀なくされたりと停滞した時期もあったが、やがてA級に定着し第一線で活躍するようになる。

 1964年初参加のA級順位戦で優勝し、第24期(1965年)名人戦で大山名人に挑戦。打倒大山に激しい闘志を抱いていたが1-4で敗退。再度大山に挑んだ第15期王将戦でも、フルセットの末、惜しくも敗れる。

 3度目の挑戦となった1967年第10期棋聖戦で見事大山を下し、初タイトルを獲得。半年後の第11期棋聖戦で、中原誠の挑戦を退けて防衛。しかし、翌期、連続挑戦してきた中原から棋聖位を奪われる。これが奇しくも、その後一時代を築く中原にとっての初タイトルであり、また、山田の生涯におけるタイトルの終止符であった。

 打倒大山の担い手として二上達也、加藤一二三と共に期待されていたが、1970年に現役A級在位のまま特発性血小板減少性紫斑病により36歳の若さで急死。6月6日の対大山戦が最期の対局となった。現役A級で逝去した棋士としては他に大山、村山聖がいる。なお、特発性血小板減少性紫斑病と言う奇病で急死した理由として、『初期状態での病因の読み違いが起因する病状悪化』『看護師ストライキが起因する入院遅れ』が挙げられている。

 山田は奨励会時代から研究・長考派で、当時は規定上は一日何局でも指せたが必ず一日一局しか指さなかった。当時では数少ない研究派で、対振り飛車急戦の山田定跡等で知られた。関根茂らと振り飛車撃破を命題とする実戦中心の研究会を作った他、奨励会の若手たちと山田教室と呼ばれるグループを作り、後に盛んとなる研究会の基を築いた。弟子は持たなかったが、多くの奨励会員に大きな影響を与えた。 当時山田の研究会に参加していた若手棋士や奨励会員に中原誠、青野照市、田丸昇、菊地常夫、沼春雄らがいる。将棋関係の著作や随筆も多く、クラシック音楽や文学(よくドイツ語の原書を読んでいた)を好んだ。旧来の「将棋指し」のイメージとは異なった、現代的な趣味や行動を志向する棋士であった。大山康晴に対しては、常に闘志をむき出しにして挑んだ。山田は読みに集中すると、姿勢がどんどん前のめりになっていく癖があったが、ある対局のとき大山が「(盤面が影になって)暗いから頭を引っ込めてくれないか」と一喝したところ、当時すでに頭髪がすっかり薄くなっていた大山に向かって、すかさず「まぶしくてかなわん。頭巾をかぶってくれないか」と言い返したというエピソードがある。

 1970年6月18日死去(享年36)





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