アディ・ジョス


アディ・ジョス

アディ・ジョス(Adrian "Addie" Joss 1880年4月12日生)
 [アメリカ・プロ野球選手]


 ウィスコンシン州ウッドランド生まれ。メジャーリーグデビュー前はウィスコンシンのタウンリーグなどで投げていた。ほっそりした体形だったジョスには、「ヒューマン・ヘアピン」のあだ名がついていた。他にもジョスの父がウィスコンシンのチーズメーカーだったことから、彼にはよくチーズにちなんだあだ名がつけられていたという。ウィスコンシンのマディソン大学を卒業後、1902年にクリーブランド・ブロンコスと契約し、メジャーデビュー。1年目は17勝13敗ながら、5つの完封勝利をあげる。2年目以降、抜群の球威と制球力でクリーブランドのエースとして活躍した。実働9年間のうち、防御率が2.50を超えたのは最初の1年だけで、以後防御率1点台のシーズンが5度にもなる。1905年から1908年までは4年連続20勝以上、1906年から1909年の間は、4年連続での防御率1点台という成績を残した。

 1908年10月2日、後に殿堂入りするエド・ウォルシュと投げ合ったジョスは完全試合を達成する。投球数はたったの74球だった。1910年シーズン中に肘を故障し、同年7月11日の試合が最後の登板となった。この年のシーズン後半は出場せず、翌1911年には結核による髄膜炎を発症し、オハイオ州トレドにて急死する。引退後にスポーツ記者になるつもりだったそうで、地元紙への寄稿も死ぬ前の何年間か行っていた。

 葬儀は4月17日に行われ、7月24日にはジョスの死を悼み、追悼試合が開催された。この呼びかけにフランク・ベーカー、タイ・カッブ、エディ・コリンズ、ウォルター・ジョンソン、トリス・スピーカーなど当時の超一流プレーヤーが自主的に参加した。観衆は当時としては大入りの15270人で、試合の収益金はすべてジョスの遺族に寄付された。

 野球殿堂の選手選考の基準として、メジャーリーグで10年以上のキャリアを持つものとする規定があるため、キャリア9年のジョスは対象外であった。しかし、大リーグ発足100周年後の1970年に一部の記者から「大リーグの歴史に偉大な成績を残したジョスを入れないのはおかしい。1911年もスプリングトレーニングには参加したのだから実働10年扱いで殿堂入りの対象になってもおかしくないのでは?」という論調が高まり、ついに1978年にベテランズ委員会によりアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。

 1911年4月14日死去(享年31)





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