丸山博文


丸山博文

丸山博文(まるやまひろふみ 1942年生)
 [放火殺人犯]


 丸山は福岡県北九州市で5人兄弟の末っ子として生まれたが、父親は定職を持たないアルコール依存症で、親が教育に無理解であったため小学5年生ごろからほとんど登校していなかった。丸山は父親の病死を機に建設作業員として全国を転々とする。1972年に結婚するも、妻が長男を出産した翌年に離婚。子供を児童施設に預けて毎月仕送りを欠かさずに、各地を転々としながら現場作業員として働いていた。

 1980年8月19日、新宿駅前広場に通じる階段に座って酒を飲んでいたところ、何者かに「ここから出て行け」と言われ、憤慨し、社会への不満が爆発、同日21時過ぎ、新宿駅西口バスターミナル20番乗り場で、発車待ちのため停車中だった京王帝都電鉄の運行する宿41系統・6号通り経由中野車庫行きバスの車内に、後部ドアから火のついた新聞紙とガソリンが入ったバケツを車両後方へ投げ込んだ。火は瞬時にして燃え広がり、6人が死亡、14人が重軽傷を負う惨事となった。
丸山博文2

 犠牲者の中に、当日後楽園球場で行われた読売ジャイアンツ対ヤクルトスワローズの試合を観戦した帰りの父親(40歳)と息子(8歳)もいた。この事件を聞いた後楽園球場を管理する株式会社後楽園スタジアムと巨人軍が告別式に花を贈ったこと、王貞治が祭壇にサインボールを供えたことが日本全国に伝えられた。また、子供の運動靴を買うため勤務先から帰宅途中、たまたま新宿に立ち寄り事件に遭遇し、犠牲となった母子家庭の母親がいた。通常帰宅経路から離れた場所で事故等に遭遇した場合通勤災害は認定されないが、このケースでは当時の労働大臣の発言もあって労災が認定された。また京王帝都電鉄では、自社の落ち度でなかった事件ではあったが、全社員に輸血を呼び掛けたり、医療費の一時立て替え等の措置を全社あげて行った。

 刑事裁判において検察側は、丸山を建造物等以外放火罪と殺人罪で起訴。放火に関しては刑法108条の現住建造物等放火罪では「放火により、現に人が住居に使用しまたは人がいる建造物、汽車、電車、船舶、鉱坑を焼損する罪」と規定しているが、この条文に「バス」は明記されていない。営業バスは多数の人が乗車することが想定されているため、バスを汽車や電車に準ずるものとして刑法108条の現住建造物等放火罪を適用すべきとする意見もあったが、判例がなく学説も分かれているため刑法110条の建造物等以外放火罪で起訴された。検察側は丸山に死刑を求刑したが、一審の東京地方裁判所は「被告人は心神耗弱状態にあった」として無期懲役の判決を下した。弁護・検察双方が控訴したが、二審の東京高等裁判所も一審判決を支持。丸山は罪の重さを認識してか「死刑になってみんなにお詫びしなければ」と語っており、死刑になると考えていたが、無期懲役=無罪と勘違いしたのか、「罪にならないんですね」と言った後で傍聴席に向かって「ごめんなさい」と言いながら土下座した。

 丸山は1997年10月7日に千葉刑務所内で首吊り自殺した。丸山はこの日の昼食後「メガネを作業場に置き忘れてきたので取りに行かせて下さい」といって作業場に向かった。しかし、戻って来ないのを不審に思った刑務官が見に行ったところ、作業場の天井付近にある配管にビニールのヒモをかけて、首を吊って死んでいたという。

 この事件の被害者の一人、杉原美津子は事件後『生きてみたい、もう一度』という手記を出版した。これはベストセラーとなり、1985年に『生きてみたいもう一度 新宿バス放火事件』のタイトルで映画化された。彼女は事件時、異性関係の悩みから自殺願望を抱いており、放火された際に逃げるのを躊躇したため全身80%火傷の重傷を負ったが、回復した。彼女は自らの希望で丸山に接見している。丸山に対しての言葉は「もう一度やりなおして欲しい」であった。当時、通常は被害者は被告人と接見することはできなかったが、この時は例外的に認められた。

 1997年10月7日死去(享年55)


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