メアリー・ベーコン


メアリー・ベーコン

メアリー・ベーコン(Mary Bacon 1948年1月1日生)
 [アメリカ・騎手]


 イリノイ州シカゴ生まれ。酒飲みの父は何度も職を失い、一家は西部の各地を転々として暮らした。その後オハイオ州に移り、そこで育った。馬とは縁のない家庭だったが、メアリーは近所の農場で馬を乗りこなす活発な少女であった。16歳でディズニー映画の馬を見て競馬に興味を持ち、イギリスの騎手学校への留学資金を稼ぐために競馬場でアルバイトをした。ハイスクール卒業後にイギリスに渡ってイングランドの騎手学校で訓練を受けたのち、1967年頃からデトロイトの競馬場で騎手としてのキャリアをスタートさせた。

 しかし、当時のヨーロッパや日本の地方競馬では女性騎手が登場し始め参戦していたが、アメリカ競馬界は封建的で、騎手免許を取得した女性騎手ペニー・アン・アーリーに対し、男性騎手がストライキを起こすなどして抵抗し、まともにレースで騎乗することができないというありさまであった(ペニー・アン・アーリーは一度もレースに出場することなく引退している)。このように完全なる男尊女卑の社会であったアメリカ競馬界において、メアリーも同様にレースデビューできない不遇の日々を過ごすこととなった。その間、メアリーは同僚のジョニー・ベーコン騎手と結婚、1969年3月には娘を出産した。陣痛の2時間前まで調教で騎乗しており、出産後わずか2週間で騎乗を再開したという。

 1960年代後半からアメリカでは女性解放運動(ウーマン・リブ)が起こり始め、女性の労働の自由が認められるようになった。その影響から競馬界においても不当な男女差別が問題視され、1969年に女性騎手の出場が許されるようになった。そしてついに念願のレースデビューを果たしたメアリーは、同年6月5日に初勝利を挙げると今までの鬱憤を晴らすかのように非凡な才能を発揮し、東海岸を中心にシーズン396回の騎乗で55勝を挙げる好成績を残した。

 メアリーの活躍がアメリカの女性解放運動の象徴として大々的に取り上げられると、メアリーは女性騎手としての活躍のみならず、その美貌からも注目され、スポーツ誌は勿論、そのほかファッション誌の『Vogue』でも特集が組まれ、娯楽雑誌の『PLAYBOY』ではヌードを披露したこともあった。また、化粧品メーカー『レブロン』と契約し、同社の広告塔としても起用された。

 人気・実力ともに充実するメアリーだったが、1975年に人種差別団体として悪名高い「クー・クラックス・クラン(KKK)」の集会に参加したという疑惑が浮上。この件で大バッシングを受けると、メアリーの人生はこのあたりから暗転を始める。1974年に323回あった騎乗依頼は1975年に143回、1976年は38回にまで激減した。前夫のジョニー・ベーコン(1972年に離婚)が1977年に自動車事故で死亡。1978年11月には大井競馬場の招待競走で来日し、1週間で24戦6勝という好成績を挙げるも、翌1979年5月にゲートの故障がもとで落馬し馬に踏まれて大怪我を負い、1982年6月10日には落馬による頭部外傷で8日間意識不明に陥る事故に見舞われた(以後傷の後遺症に悩まされることとなる)。また、厩務員の少年に乱暴されたりなど、さまざまな困難が続いた。更に、これに追い討ちをかけるように子宮頸癌に罹ってしまう。

 これ以上の乗馬がかなわないと悟ったメアリーは、1991年6月7日、テキサス州フォートワースのモーテルでピストル自殺を図り、翌8日搬送先の病院で死亡した。遺言により遺体は火葬され、遺灰はベルモンドパーク競馬場のゴールラインの上に撒かれた。そこは予後不良で世を去った名牝ラフィアンが埋葬された目の前であったという。

  1991年6月8日死去(享年43)


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